長浜市三田町を中心とする北近江の中世史を、地域に残る史跡・古文書をもとにわかりやすく紹介する歴史サイトです。
著書『三田村一族の興亡』『戦国六角記』の内容を補いながら、湖北・湖南の歴史の魅力を広く伝えることを目的としています。


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最盛期(1560年頃)の三田村城を、筆者による縄張り図とCGクリエイターの高度な再現技術によって、細部まで鮮明にご覧いただけます。復元内容は、城郭研究の専門家からも高い評価を受けています。研究・教育・広報など、用途に応じてご自由にご活用ください。

最盛期の三田村城
最盛期の三田村城

最盛期の三田村城(1560年頃)→1級資料に基づいてC.Gで作成した「三田村城」復元図(1560年頃)。外堀は南流の「姉川」と北流の「草野川」から導水、万一の場合に備えた危機管理が見える 。

初代三田村城
初代三田村城
最初の三田村城 1200年頃の佐々木幸弼(初代城主)の館

三田村城の復元は「縄張り」から始めます。「縄張り」とは城の設計図で、主の館や政務の部屋、家族の部屋、防御のための堀や土塁の配置を決めるものです。城の全体像を設計することです。中世社会(鎌倉1185~1333年・室町1336~1573年)を概観し、時代に合わせて何度も書き直しました。難問を解決し、専門家に依頼しC.Gで実像を再現してリアルに理解していただけるように工夫しました。

                歴代 三田村城主一覧

     代   城主名  在位年代(推定含む)  主な事績・歴史的役割
   初 代             佐々木幸弼(三田村幸弼)1185〜1204頃源頼朝より三田村地頭に補任。三田村城の創始期を築く。佐々木氏庶流として三田村家の基礎を確立
   第2代 三田村幸真 1204〜1221承久の乱で後鳥羽上皇方に属し戦死。家は一時断絶
   第3代 三田村康家 1442〜1466京極持清により三田村へ派遣。居館を再整備し、三田村家を再興。延暦寺・堅田衆との交渉を担う
   第4代 三田村友家 1466〜1472応仁の乱で京極家の旗頭として参戦。京極家内紛により越前へ退避し家は再び中断
   第5代 三田村康定 1523〜1525上坂氏討伐に参加。六角方に属するが暗殺される。湖北の勢力図が大きく揺らぐ時期
   第6代 三田村氏光 1525〜1534頃清水谷に屋敷を構える。浅井氏との血縁強化。家紋を「波切小車紋」へ変更し家格を高める
   第7代 三田村定頼(伊予守) 1534〜1559官名が伊予守へ昇格。浅井亮政の娘を娶る。三田村城の大改修と兵站基地化を進める
   第8代 三田村光頼(飛騨守) 1559〜1566官名が飛騨守へ。浅井家と信長の同盟を推進。家中で強い影響力を持つ
   第9代 三田村定元(相模守) 1566〜1568箕作城攻撃で秀吉を庇い戦死。浅井長政が三田村まで赴き遺髪と槍を届けた逸話が残る
   第10代 三田村国定(多賀備中守) 1568〜1573姉川合戦で三田村城が朝倉本陣となる。小谷城落城後、信長の裁定で斬首。三田村家の終焉

『姉川に刻まれし水魚の契り』―秀吉と三田村城主、敵味方を越えた情の記憶―

姉川は、古より湖北の大地を潤し、時に戦乱の血を受けながらも、その流れの底には、人の縁がひそやかに息づいていた。三田村城主・第九代定元、そして第十代国定。彼らは浅井軍の一将として、織田軍団の旗の下に立つ秀吉と、幾度も同じ戦場の風を吸い、槍の影を交わし、背を預け合った。

戦場における邂逅は、はじめはただの偶然にすぎなかった。しかし、両者が示した気質は、まるで古典に語られる「刎頸の交わり」を思わせるほどに、不思議なほど相性が合った。秀吉は人心の機微を読むことに長け、三田村の両将は、地の利を活かしつつも、味方を見捨てぬ剛毅を備えていた。

ある合戦で、秀吉の隊が伏兵に囲まれた折、定元は「秀吉殿の隊が崩れれば戦は終わる」と見抜き、自軍の危険を顧みず突撃して包囲を破った。秀吉はその一瞬を忘れなかった。「三田村の者は、背を見せぬ」その言葉は、秀吉の胸に深く沈んだ。

やがて姉川の戦いが訪れ、両者はついに敵味方として相対することとなる。戦場の風は冷たく、かつて背を預け合った者同士が槍を向け合うという残酷な運命が、三田村の両将と秀吉を引き裂いた。秀吉は、敵陣に翻る三田村の旗を見つけるたび、「定元、国定……すまぬ」と心の奥で呟いたと伝わる。

戦国の理は情を許さぬ。だが、情は理を越えて心に残る。浅井氏が滅び、秀吉が長浜城主となった後も、三田村一族の名は、秀吉の胸から消えることはなかった。むしろ、忘れられぬ痛みとして残った。

「わしは三田村の者を戦場で死なせた。その悔いは、天下を取っても消えぬ」秀吉はそう語ったという。

その思いが形となったのが、天正年間、日照りが続き、姉川の水量が著しく減じた年である。姉川流域の村々は水不足に苦しみ、水争いは殺気を帯び、農民にとっては死活問題となった。この地域の水利は古来より複雑で、一度の裁定が村の存亡を左右するほど重かった。

秀吉は長浜城で訴えを聞き、静かに目を閉じた。「三田村……定元、国定……」かつての戦場で背を預け合った二人の姿が脳裏に浮かんだ。秀吉は、武将としての冷徹ではなく、人としての情をもって裁定を下した。

姉川の水利を、三田村に有利となるように配分したのである。その沙汰は、周辺の村々から驚きをもって受け止められた。「なぜ三田村だけが優遇されるのか」しかし秀吉は理由を語らなかった。語れば情に流されたと見られる。

だが、情こそが秀吉の本質であった。三田村の農民たちは、その裁定によって飢えを免れ、田は再び水を得て、稲は青々と育った。

庄屋たちは長浜城に礼を述べに赴いたが、秀吉はただ一言、「三田村は、よう働く村よ」とだけ言ったという。しかし、秀吉の胸の内には別の言葉があった。「定元、国定……わしは、ようやくおぬしらに報いることができたかもしれぬ」それは、戦場で失った友への供養であり、刎頸の交わりを結んだ者への遅すぎた返礼であった。

水魚の交わり――水と魚が離れられぬように、秀吉と三田村城主の絆は、敵味方を越え、時代を越え、姉川の流れのように静かに続いていたのである。

三田村城からの史跡巡り・・・見学者の体力に合わせて最適コースをガイドします。

散策コース1時間  ①三田村城跡→②七十士の墓→③野神塚古墳

探索コース3時間 ①三田村城跡→②竜ヶ鼻(茶臼山古墳)→③遠藤直経の墓→④陣杭の柳→⑤勝山

         →⑥姉川戦死者の供養碑→⑦血川の跡地→⑧陣田

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