歴史秘話

温故知新

現在の私は地域の皆様のお陰です。喜寿を過ぎた現在、振り返ると集落に連綿と伝わる伝統行事や共同作業・寺社への奉仕などでその都度に先達から多くを学びながら住民として生活をしてきました。多くの貴重な体験を通して「人間としての生き方や在り方」も教えられてきました。私にはこれまでの経験を後輩へ伝承していく責務があります。60歳で退職し時間の余裕が生じました。地域あっての私です。そこで地域の変遷や現状を謙虚に観察し、連綿と続いてきた村落の歴史を掘り下げ、先人達の苦楽を共有しながら、今日を考え将来の在り方を模索しました。その一歩として名士たちが書き残した村に残る「郷土史」類を拝読しました。私見ですが残念ながら伝承・通説の域を出ません。そこで私の目線で再調査や村に残る古文書の解読、さらには古老への聞き取りに専念しました。

そして郷土の見直しから始めて十五年、ようやく納得のいく本書が完成しました。検証可能な第一級資料を基に、かつて高校で日本史を教えてきた知見も活かしたライフワークです。

全国各地にはそれぞれに固有の歴史がありますが、私の地域にも埋もれた歴史がありました。本書を手に取っていただき全国の皆さまにも楽しんでいただき、さらに地域再発見の一助にして頂ければ幸いです。僭越ながら決して期待を裏切る内容ではないと自負しています。

滋賀県の湖北地方には中世末期の三大英傑「信長・秀吉・家康」が関係した史跡があります。元亀元年(1570)6月28日の「姉川合戦」です。「姉川合戦」の戦場跡が自宅の近くにあります。そのような好立地も活かし地域史に新たなメスを入れた納得のいく一冊です。

本書がきっかけとなり、全国各地の良さが再発見され、若者が生まれ育った土地に愛着と誇りを感じて、全国で加速する過疎・過密が緩和されて「地域活性化」に一石を投じることを切望しています。

豆知識・・・守護とは、鎌倉・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。将軍より任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督でした。
近江では鎌倉時代は佐々木氏、室町時代になると南近江に六角氏(観音寺城)・北近江に京極氏(上平寺城)が対立しました。 戦国時代になると、土地や年貢の管理をしていた有力な地元の武士が力をつけ守護は消滅しました。
戦国大名の六角氏と京極氏は近江の支配権を巡って軍事的衝突を何度も繰り返しました。しかし下克上(応仁の乱以降)に突入すると北近江の支配権は小谷城主の浅井亮政→久政→長政が戦国大名になり覇権を握ります。その結果、浅井氏と六角氏が鋭く対立します。やがて浅井氏は姉川合戦で消滅します。一方、南近江の戦国大名・六角氏も継嗣問題で弱体化し内紛そして落城しました。南條範夫の「幻の観音寺城」(文藝春秋)に詳述されています。
★ご依頼があれば何処へでも出向き、「三田村城」についての説明や販売会・講演会、その他「近江の中世社会」についての解説などもさせて頂きます。パワーポイントでビジュアル・正確を期し質疑応答もO.Kです。また「地域史」の出版をお考えの方にはご相談にも応じます。お気軽にメールでお問い合わせください。 

黄金伝説 黄金 背景 イラスト に対する画像結果 姉川合戦(1570.6.28)の秘話は時代小説や映画などに豊富な題材を提供してきました。本書でも取上げています。日本史上最大の激戦であった「姉川合戦」は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼ばれていました。

姉川の中流域で対陣した両軍は上流域の「野村」と下流150㍍の「三田村」で戦いがありました。野村の陣地では浅井軍9千人と織田軍2万人が相まみえ、織田軍の陣地深くまで迫ります。信長も死を覚悟します。兵数では不利な浅井軍が勢いで信長に迫っています。

一方三田村の合戦地では朝倉軍(1万)VS徳川軍(5千)戦っています。

朝倉軍の総大将は家老の景健です。惜しむらくは浅井・朝倉同盟の証として朝倉義景(城主)自らが精鋭一万の兵を伴って参戦していたら、家臣たちの士気も高まり、軍功を競う猛者たちが徳川軍五千人を手玉に取って壊滅させたでしょう。

勝敗は時の運といいますが、実戦では兵の数や戦意が左右します。ここは朝倉勢が両方とも上回っています。総合的に判断すれば朝倉勢の優勢は最初から明らかで、敗退する理由はありません。

三田村合戦(朝倉VS 徳川)では、朝倉軍が破竹の勢いで徳川方を蹴散らし、その余勢で野村合戦(浅井VS 織田)の援軍に駆付け、信長軍に襲いかかります。浅井軍も思わぬ友軍の加勢に士気が一気に高まり、たちまち攻勢に転じ信長軍を追い詰めます。

この戦況を見ていた横山城攻撃軍 (織田勢)の丹羽長秀・稲葉良通・氏家直元などの各隊は、すわ御大将の危機とばかり信長軍の危機を救うため加勢に向かいます。横山城包囲軍が去ると、浅井方の猛将、三田村・大野木・野村の精鋭二千が横山城から雪崩の如く駆け下り信長本陣めがけて襲いかかります。信長軍は前後を挟撃されて総崩れとなり、刀折れ矢尽きて信長は遂に討たれます。信長の首を刎ねたのは三田村城主「国定」です。信長は本能寺(1582年)で明智光秀に殺されたのでなく姉川合戦で三田村国定の刃で無念の死を遂げたのです。

信長・秀吉・家康の三大武将がそろって参戦した「姉川合戦」は浅井・ 朝倉軍の大勝利に終わります。地元民として、今日まで伝わる「姉川合戦」の事実は全く受入れられません。

歴代の三田村城主は姉川と草野川に囲まれた広大で肥沃な領国からは年貢を徴収しています。その冨は莫大です。姉川合戦時には浅井長政の命で横山城を守っていました。居館は越前からの援軍に提供していますが、長年の支配下で蓄えた莫大な富までは与えていません。三田村城は朝倉氏の本陣として貸しただけです。

推測の域を出ませんが、敗戦も想定して巨額の冨は三田村屋敷の何処かに隠したと考えられます。その在処は国定とその命に従って埋蔵した家臣しか分かりません。調査のため三田村城の土塁を何回も注意して歩くと、二ヵ所に不自然な凹凸があります。そこはちょっと見では見分けがつきませんが、よく観察すると450年経っても不自然です。

金属探知機を当てると、やはりその箇所からは金貨の埋蔵反応が出ました。広大な土塁の2箇所に埋蔵金が今も眠り続けています。想像が確信に変わりました。いつの時代にも重宝される「金貨」は、これからも黄金伝説として長く語り継がれていくことを願っています。しかし人間には弱さもあります。黄金の誘惑に負けて掘り出されることも皆無ではありません。そこで住職(松波 正氏)の承諾を得て監視カメラを設置しました。

しかし現実にそこまでする必要はありません。財宝(金塊)を発掘することは許されません。それは国の史跡に指定されたからです。文化財保護法第196条「史跡の現状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為をして、これを滅失し、毀損し、又は衰亡するに至らしめた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は30万円以下の罰金に処する」とあります。発掘に規制の網を掛けることは盗掘をまぬがれる唯一の手段です。三田村氏が残した膨大な財宝は永久に土塁の中に眠り続けます。「幻の三田村城」は土塁の中から淡い黄金の輝きを永久に放つ三日月のようです。土塁に眠る莫大な金塊は国有財産です。盗掘を試みた場合は、赤外線監視カメラ(Wi-Fi)から拙宅とセコムに速報されます。(筆者の遊び心から!) 

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